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TRANCE EXPRESS TOUR 89: KAI YOSHIHIRO & PROJECT K

TRANCE EXPRESS TOUR 89
2年越しになる「TRANCE EXPRESS TOUR」だが、アルバム「CHAOS」の発表を受けてステージにも拍車がかかる勢いの時期である。
パンフレットは豪華で紙製の袋に納められたパンフレットは写真に重点を置き(いくつかのキーワードが写真と共にあるが)、テキスト類は別冊にぎっしりと詰まっている。
パンフレット内の写真はオフ・オンステージのもので構成されているがイメージ的にはオフ・ステージのものが多いように思われる。
あまり見ることの出来ないであろう「オフ」の甲斐に生き生きとした姿を見て、ただ何となく嬉しい気持ちになる。
ステージは「CHAOS」で結構な重たさを持ってしまう状況ではあったが、メッセージは確かに皆の心に入っていった、そんなステージだった。

しかし、なんでこういうトップなんだろうか・・・(^_^;;、というかジャケット写真なんだろう。
「CHAOS」を重たく、どよん・・とさせているイメージはこのジャケ写真によるものが大きいと思うのだが・・・。


混沌のなかに見える〈夢〉


今更ながら、私情以外の事でものを言うのはもうやめようとつくづく思っている。
気がつくと最近私は(その人の立場さえ理解すれば)誰の気持ちもみんな分かるような言葉を思い付いている。
でもそれでは私のいる場所が失くなってしまう。
だから、もう・・・・・・。
例えば、「こんな街なんか出ていこう」と元気一杯に叫べる人たちは、早くどこへでも行けばいい。
誰も君に”こんな街“にいてくれと頼んだ覚えはないはずだ。
でも少なくとも私はまだ”こんな街“にとどまろうと思うし、ここを出たからと言ってほかに行くべき場所はないのだと思っている。
同様に、やりたいことをやりたいようにやることを、あちらこちらでためらってきた私には、「いい加減になろうぜ、あれもこれもみんなセージが悪 いんだ」というアジテーションに頷くことはやっぱりできない。
甲斐よしひろのニュー・アルバム「CHAOS」を聴きながら私は、1年ぶりのコンサートの事を考えていた。
1988年の12月、オープニングは「翼あるもの」だった。
けれども正直言って私には、甲斐のヴォーカルに入るまで一体何が始まったのだが判らなかった。
それは”懐かしい“ナンバーではなかったのだった。
2曲目は「ダイナマイトが150屯」。
そして「電光石火BABY」から「ミッドナイト・プラスワン」へ。
「エキセントリック・アベニュー」「イエロー・キャブ」やニュー・アルバムからの「カオス」「WORD」をまじえながらも、「シーズン」「COLD BLOOD」そしてラ ストの「安奈」まで。
それは、選曲も歌い方も実にバラエティに富んだステージで”現在(いま)“の甲斐よしひろがやりたいことをやりたいようにやっている。
そのことがとてもストレートに〈伝わってきた〉のだった。
とくにそれは、アンコールで甲斐のアコースティックギター1本で歌われた「HERO」で決定的に分かったような気がした。
あの、9年前と同じようには歌われなかった「HERO」。
それがとても当たり前のことだと判ったときに、私はもう一度その日の「翼」を思い出していた。
”あたたかな港“という意味を。
このTrance Express Tourニュー・アルバム『CHAOS』には、甲斐バンドを振り切ろうとか忘れようという気持ちから本当に解放されて、甲斐よしひろが、いま歌いたいこと を、正直に歌えていろ潔い幸福感があった。
そして更に”こんな“街、”こんな”世界から消えてしまうことの出来ない甲斐よしひろが、同じようにここで生きようとする私に、私達 に歌いたい歌が「翼」であり「カオス」であり「安奈」であり「THANK YOU」であるといまいうことには”現代“に関わる意味があるのではないかと思った。
世界はいつも変わり続けている。
単純な正義感やヒューマニズムではそれに抗い勝つことは出来ない。
しかも、かと言って人間のほうが世界の変化と同じ速度でそれに順応していくことも出来はしない。
むしろそうやって変わっていくことを心のどこかで望んでもいたりするのが人間なのかもしれないのだから。
たとえば、都市というところに集まって暮らすようになった人々は、互いに傷付け合うことを避けるために、支配や依存の関係をおちてざたにはしたくなかった。
そしてついには 病気になって保護されることさえにも罪悪感を覚えるようになってしまったのだ。
あるいは、たとえば、甲斐が「カオス」を捧げた二人のアメリカの友人達のうち一人は、既にエイズでこの世にいないし、もう一人はベトナム戦争の後遺症で精神病院に入っている。
これが“こんな“世界の正体なんだ。
それでもなお、この場所で生きていて、これからも生きていこうというのなら、どうにもならないことであっても政治や経済や文明や文化や、 不信や悲惨さや絶望から目をそらし続けることはできない筈ではないか。
そして、そんなどうすることもできない混沌とした世界に生きているからこそ、その中にある《夢》を信じたいとも思うのではないか。
何を見つめていようとも人は最後の最後は独りになる。
甲斐よしひろのコンサートと「CHAOS」は、それを了解し、覚悟しているからこそ見えてくる、混沌の中でほのかに熱を放っている[夢]のことを思い出させてくれたように 感じている。

水越真紀

Kai Yoshihiroの新機軸。


ドキュメント1989

深呼吸をしてみると、1988年は比較的「嵐の前日」的なことにいくつか想いあたる。
いつの間にか、時代が平然と移りつつあるのは子供の成長のように一昨日とは違う今日があることにもう一度再び気付かされる。
Kaiの1988年12月MZAでのGIGは意表をついた1週間だったといえる。
87年暮の「ストレートライフ・ツアー」は、フリーキーなサウンドをある都市を設定した「壁」をオーケストレーションさせたサウンドの中にしっとりと漂よわせていた。
それは全体の風景としてみると、ディテイルというのはその風景のような1つ1つが動くオブジェ化していて可能限り、自然に近づいていくいたいけなKai(=PROJECT〉だった様にも思える。
「ストレートライフ」というアルバムもKai Band後のイメージは、「スペクタクルという構成をよくふまえた建築物を連想させるし、武道館というスペースでの、イメージの展開からMZAへの移行のエクスタシーは、Kaiのあらたな「無謀な計画」のにおいがする。
ディテールの量感はMZAというスペースで、風景からポートレイトに進行している。
「トランスエクスプレス・ツアー」のパート2は、とうとう本題に入る筈だ。
3月からのツアーは「CHAOS」後のスタートでもあり、核(コア)になる部分は「CHAOS」になるであろうことは、調べがついている。
Kaiのソロ・アーティストとしての「もう一方での」出発点でもあるように思われる。
「ストレートライフ・ツアー」での脱Kai Bandまたは尊敬の念をこめた望郷からの意識的な選曲も、もっとリラックスしたものに「計画化」されるにちがいない。
「CHAOS」の中に潜在するこの危険さは、かなり鍛えられた「無謀さ」で充満している。

プ口ジェクトK

パフォーマンスの後遺症。
犯人はKa自身であるわけだが、このパフォーマンスのプロジェクト(計画)は、綿密な「観察」から発している。
この辺は正確に「現場」から拾っていかないと、マズイことになる。
イメージをヴィジュアライズしていくことこそ、Kaiの練っているサウンドの要素〜表現であり、飛び込み台のポジションである。
スピードのことと、エネルギーのことが脳味噌の水分となって、パフォーマンスが成り立っている。

カオス

雑食しているようで、実はねらいははっきりしている。
「トランス」は仮りの名前で、失なったものをとり戻したりする計画は「泣いている天使」(CHAOS−波)を水面上に引き上げる「栄養」はつけているし、Kaiの「メモ」からは、南北に分かれているものを、いっしょに生活させたいという意志表示ははっきりしている。
白昼にTVを観ていても、地下鉄を待つ少年がいたずらにふるまっても、実はその風景の中を解剖するイメージに、原石はさぐりあてている。

H.Sunto(1989年1月)


IMPRESSIONS OF CHAOS

インジュリィタイム

私、この歌の歌い方、すきなんです。
曲と歌詞の関係がスリリングで。
真夜中の海で、おぼれながら歌ってる感じで、”罪をあがない、君こそが革命・・・“なんて、バッチリ決まって最高。
そう、男には女。
女には男が、革命そのもの。
そして革命こそが、意識改革の最高のもの。

萩尾望都


カオス(August 1998)

“この曲は ラブ・ソングだろうか“
この文章はそのような摸然とした疑問からはじまる。
アーティストの創り出す世界は 時としてそのあまりにも純粋な精神ゆえに俗世間から大きく離れた世界を表現する。
それは人間の持つ感情というものを越えた世界だ。
そこには争いも憎しみもない。
しかし僕たちは、この時代二の地球の上にいてこのような崇高な精神的世界に 浸り続けることは出来ない。
ふたたび、この地上のカオスの中へ身を投げ生きることを成し遂げなければならない。
“この曲は ラブ・ソングだろうか“
この作品で 語られている愛はもちろん、眼の前にいる”君”にささげられている。
だが、同時に その視線は”君“を通り越してふたりを囲む世界にも注がれている。
争いも憎しみもない・・・・・・
この視線こそ、現在の甲斐よしひるの立場を表してる。
僕たちも 彼が今、何を見ているのか、理解すべき時期に 来ているのではないだろうか彼を血まみれのレッドスターにさせないためにも。
そしてだからこそ、考えてみたいのだ。
“この曲は ラブ・ソングだろうか”

清水隆俊

過去に何をやったかではなく、これから何ができるのか?それが大切なのだ。
ということをアルバム「カオス」はぼくに教えてくれるが、特に「カオス」はぼくの心に潜んでいる”青春の疼き”を見事に刺激してくれる。
甲斐にもらったエネルギーをどう爆発させようかと考える今日この頃である。

富澤一誠

これはふしぎな歌。
シェルター、人工灯、ひどい世界の中で忘れてしまいそうな愛。
都市生活の限界を歌ってるのだろうかと思っていたら友人が、シェルターとは核シェルターではないか、という。
そう考えると歌の情景は一変する。
”そして何かお腹に入れよう“と歌う食事のシーンで、彼らは何を食べているのか。
「ブレード・ランナー」や「地底のエリート」など、核戦争とその夜を扱った映画や小説はたくさんあるけれど、歌でこういう世界のムードを聴くのははじめて。
”魅力的な愛を君に捧げる毎日“の毎日は刹那的な日々に思える。
”死ぬまでごぶさた“の、”ほんとのミルクとスマイル“って何なのだろうと、思いにひたればひたるほど、この歌の世界は混沌と広がっていくのです。

萩尾望都

僕の場合、歌には”言葉”から入っていくことが多いが、この「カオス」は特にそうだった。
1998年という10年後の世界。
(現在も既にそうなってはいるけれど、)つま先立って歩いて行かなくてはならないような世界で、自分がどうあるべきかがストレートに集約されている。
甲斐の歌い方のせいか、あとで聴くととても鮮明に映像がイメージできる。
彼の歌はだいたい映像的だが、「カオス」のイメージは特別印象的だ。
冷たいという意味の”クール”ではなく、しっかりと自分の場所に立ってものを見ているクールな感じなのだ。

チト河内


WORD

この数年間、ぼく(たち)は変わり続ける甲斐よしひろに眼を奪われ続けてきたが、「カオス」では逆に変わらない甲斐よしひろがぼく(たち)の前に浮上してきた。
だから結局、とぼくは思う。
ミュージシャンはデビュー以来のその長い音楽生活において、たったひとつのことを歌い続けるのに違いない、と。
「WORD」も「一世紀前のセックス・シンボル」を連想させる懐かしさのある曲だけど、”秘密もタブーも 二人のものさ 震えがくるぜ“という女声コーラスとのセクシーな掛け合いの部分にくると、俄然元気に、そしてエッチな気分になれて、ぼくは好きです。
はじめてこの曲を聴いた時にはややパニック的な不安を感じた。
踏み込むとやばい感じ。
足もとをすくわれてバッタリ倒れてしまうようなリズムで。
おまけに歌詞がまた、やばくって、ハードで、”レイプされてる真夜中“なんて、社会犯罪ですよ、これは。
しかし、個人のイメージの中において、受身にレイプされているのはおそらく、歌っている甲斐さん自身なんだろう。
で、”愛のフレーズは・・・“の先が'88年、MZA有明でのコンサートで聴きとれず、友人の意見は「ワイルド」「ワー(戦争)」「ウォント」「ワン」等々、わかれたのであった。

萩尾望都


RED STAR

感慨させられる曲というのは、自分にとっての好きな曲であり、やはり一番気になるものです。
そういう意味でこの曲は私の好きな傾向にあります。
こういうと甲斐さんに怒られそうですが、まあ、しろうとだと思って許してくれるでしょうが結構BGMとしても聞けそうな曲です。
しかし私は音楽をBGMとして開く習慣がほとんどなく、好きな曲(だけ)をじっくり開き込む方です。
夜、酒を飲みながら聞きほれることもできるしBGMにもなる、この曲は最高ですね。
なまいきなことを言うようですが、甲斐よしひろの音楽に大きく2つのタイプを感じます。
ストーリーテラーのように語られる歌詞。
また、歌われる世界のまっただ中にいてうめき、怒っている歌詞。
前者はていねいに甲斐よしひろの冷静な判断がされていて、ここでは、A1、A2、A5などに感じます。
後者は生の感情がストレートに表現され、感嘆詞が多く聞かれるもので非常に興奮している。
どちらも甲斐よしひろの世界だと思います。
特にこの曲は、両者がスマートに交差し、しゃれたわめき声に引きつけられます。
私の好きなムードをもったやけに色っぽい曲で、これはたぶん大人にしかわからないでしようね。
(これは大事なことです。)

岩岡吾郎

遥か昔、例えば日本で言えば弥生時代に使わねていた弥生言葉のようなものが聞こえてくる、「レッド・スター」という曲のサウンド全体を通じて、そういう言葉に呼び掛けられているようだ。
打ち込みのコンピューター音楽を作っていて、そういうものを何度も聴いていると、最初は解放されるけれど、しばらくするとその音楽に責めたてられるような気がしてくる。
この曲は、音楽的には難しいことは何もしていないシンブルで明快な曲だが、聴いていると自分が本来は持っているのに忘れているところや気がつかないでいるところが見えて、それを一瞬解放させてくれるような感じがある。
その呼び掛けてくる声は、自分がどこかで聴きたいと願っている声なのかもしれない。

チト河内

独特の妄想が好きだ。
シラフで現実を感じれば感じるほど、見えてくる妄想のような世界の様相。
甲斐はそうした設定の中で、愛を誘う。
その愛はと言えば「君といたい、ずっといたい、夜も昼も、そばに」という非常にストレートな熱情だ。
たとえば映画「地獄に堕ちた勇者ども」のワンシーンのように、一室に隠れ住む男女が割れたジャムのビンを踏みつけてまで運命と愛を確かめ合うことを思い出す。
ぼくらは地球に閉じ込められ、誰もがガラスの破片を踏み、そして愛し合いたいと願っている。
だからこの歌は妄想ではない。
これが彼の語り口なのだ。

平山雄一


ミッドナイト・プラスワン

甲斐よしひろがグリフィスに捧げたオマージュと言うこの曲は、聴く度に不思議な世界に私を誘う。
グリフィスの「イレトレランス」は、古代のバビロンから現代まで、人間の歴史をたどりながら、最後は最終戦争を思わせるようなシーンで終わる。
すると、この最終戦争と”ミッドナイト”の意味が、ふと私の頭の中で重なってしまうのである。
約40億年の地球史を24時間の1日でたどると、人類の出現と文明の発生は、真夜中の数秒前である。
真夜中へ向けて、すべての想いは終結され、戦争と共に人類が終わる。
その真夜中をすぎてなお消えない想いが、”ブラスワン“として残る。
次の新しい人類史・生命史が始まる24時間の、最初の1が、消えなかった前目の想いなのだろう。
断ち切れない想いを恋人へ唱うこの歌が、私にはふと、そんなふうにも聞こえてしまう。

萩尾望都


THANK YOU

なんだか古い友人から届いた手紙みたいな懐かしさを覚えながら、何度も何度も「カオス」のテーブをオート・リターンで聴いている。
ぼくたちの耳と身体に馴染んた甲斐よしひろらしさが、このアルバムにはふんだんに込められていて、それがぼくを懐かしい気分に誘うのだと思う。
タイトル・チューンの「カオス(1998)」「ミッドナイト・プラスワン」も大いに気に入っているけど、やっぱり「サンキュー」と「WORD」がいかにも甲斐よしひろっぼくって、ぼくは好きだ。
メロディー、ボーカル、どれをとっても、ぼくたちの大好きなあの甲斐よしひろが「サンキュー」と「WORD」にはいる。
特に”少し疲れて・しまった“という「サンキュー」の一節、あれはいいなあ。
甲斐バンド時代の名曲の幾つかもあの瞬間ダブってきて、泣ける。

亀和田武

突然の話で恐縮ながら私は、山崎豊子原作のTVシリーズ「白い巨塔」の熱狂的なファンであった。
今は亡き田宮二郎が、ほとんど主人公になりきってそのまま自殺してしまったという名演で、野蟹にとりつがれた男がつかの間に見せる子供のようないじらしさがたま らなかった。
で、その田宮二郎の鬼気せまる演技の中でもいちばん好きなセリフがひとことある。
妻も友人も義父もすべて野望の達成のための道具でしかない。
そんな彼がただひとりだけ心を許せる相手である愛人の前で、ぼーっと宙を見つめているシーン。
着々と登りつめていく権力ヘの階段・・・・・・。
しかし、なにが思い出しかけていることが思い出せないようなもどかしさの中で、ふと立ち止まり、大切ななにものかを失なってしまったような思いにとらわれることがある。
そういうシーン。
愛人が訊く。
「・・・・・・どうしたの?」
答える。
「・・・・・え、ああ。・・・・・・少し、・・・・・・疲れた」そして、ほほえむ。
このセリフなのだ。たまらなく僕の胸をしめつけるのは。
大人が「疲れる」というのは、こういうことをいうのだ。
疲れた心とは生きていけない。しかし、疲れることを忘れた心には生きていく資格がない。
僕は、そう思う。
”Thank you"の、”少し、疲れてしまった“というフレーズには、同じような痛みがうずいている。
だから、僕は好きなのだ。

西岡文彦

ぼくが最初に甲斐よしひろに対して持っていたイメージというのは、”ダメを売り物にする奴”というものだった。
コンサートでトバしまくり、やがてポロポロになっていく姿にリアリティーがある、と受けとめていた。
しかし、それはそうなのだが、コンサートが大団円を迎える詩、彼はオーディエンスに向かって全身で感謝を表わす。
マイクから離れた口から、感謝の言葉がそのまなざしとともに語られる、ぼくはこの「TAHNK YOU」という小品に、そのことを感じてしまった。
甲斐の「Thank you」は、心からのホップなのだ。
それが彼の最大の魅力のひとつだ。

平山雄一


コールドルーム

これ(「コールドルーム」)はもうほとんど感情の溢れるまま、「コールド」「えもの」「レイン」「ナイト」・・・・・・甲斐よしひろの言葉たちが叫び声にからみ一気に歌い終るという感じです。
以前の甲斐よしひろならたぶんもっと激しく生々しかったでしょうが、やはりこの曲も大人ですね。
オシャレなアレンジでスピードのあるアフロっぽいリズムにのせて、激しいジャズのようでワクワクします。
甲斐さんは特に映画や映像に関心が強い人ですが、映画の重要なシーンやクライマックスにそのまま使われそうな緊迫した映像をイメージさせてくれます。
撮影のため、前に3度ほどいっしょにN.Y.C.へ行きましたが、私にとっては緊張したフォト・セッションだったことも手伝って、この曲を聞いていると、スリルなN.Y.C.の街角を思い出します。
この曲は言ってみれば、映画のストーリーを語るようにではなく甲斐よしひろ本人が映画の主人公となって、全編あばれ回っているような気がします。

岩岡吾郎

この歌を聴いていると、雷やハリケーンに襲われながら立っている女なんて、どういう人なんだろうと考える。
星条旗通りが凍ったり、世界中吹雪だったり、・・・で、思わず、これはUSAに対する、日本からのオマージュかななどと考えてしまう。

萩尾望都


不思議な夢

GS末期のグループ、ハーフ・ブリードの曲なんだそうだ。
最初聞いた時は、何で英語で歌ってるのかと、甲斐よしひろの狙いを探ってみたりもしたのだが、原曲の“正体”を聞いて納得したような気になった。
ソロ・アルバム「翼あるもの」を思いだすまでもなく彼−GSへの精通ぶりには驚くべきものがある。
ハーフ・ブリードもシングル2枚だしただけのグループなんだそうだ。

田家秀樹


I.L.Y.V.M.(New Mix)

甲斐よしひろの歌詞は詩と共に変化してきた。
しかし、いつの場合でも「男と女の歌」という基本線は貫かれていたと思う。
一時期、表面的な色合いがハード・ポイルド的になったりしただけで、根底に流れるものは同じであったはずだ。
(少なくとも僕はそうであったと信じている)
「l.L.Y.V.M.」という歌は”言葉数”が少ない歌だ。
しかし、その裏には実に多くの言葉が隠されているように思う。
サビの”L.Y.V.M.”という部分にこの歌詞に現れている言葉の何十倍もの言葉が凝縮されているように、僕には開こえてしまうのだ。
人を愛してる者がもつ波動がリアルに届いてくるのである。
これぞ甲斐よしひろの現在の力を示した曲だ、なんて言うつもりはないが、小手先技ではない深い部分に根ざした表現(=歌)をさりげなく示してくれたことに僕は正直に言って嬉しかった。

森内 淳

数あるバラードの中で、かつてこれほど”圧倒的“なバラードがあっただろうか。
きれいな、美しい、悲しい、胸にしみる、哀愁を帯びた・・・・・・とどんな美辞麗句を百万言費やしても表現しきれない”圧倒的なバラード“さすが甲斐よしひろである。

富澤一誠

「ナイトウェイブ」の”ナイト”がとれたもの、と単純に比較してしまってはいけないだろうが、ただ、状況や世界が激しく移り変わる中での”二人”のあり方のイメージには共通したものもある。
悲しみや闇の中での”愛する者”への願い。
”君”というのは”男と女”のことだけでもないのだろう。
アルバム全体の最も自然なコンセプトの曲ともいえるのではないだろうか。
ひとをジャージーにしたらこうなるのかななどとも思ってしまった。

田家秀樹

PROJECT K

Kai Yoshihiro
(Vocal)
Kai Yoshihiro
Masahiro Miyazaki
(drums)
Masahiro MIyazaki
Makoto Matsushita
(guitar)
Makoto Matsushita
Akio Suzuki
(saxophone)
Akio Suzuki
Yasuo Tomikura
(bass)
Yasuo Tomikura